katharsis

しがないオタクの萌え語りやソシャゲ、日常などを書きなぐったブログ。ネタバレ+毒あり注意。

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記憶、記録を綴る。閲覧注意です。

この日、私は中学の卒業式を翌日に控えていた。学校が嫌いだった私は「早く卒業したい」と切に願いながら一日を過ごしていた。

幸いだったのは、姉の学校が丁度休みだった事。当時父は単身赴任で県外に居た為、家には私、母、姉の家族三人が揃っていた。

母が出掛ける為にストーブを消した。今思うと、全てタイミングが良かったのかもしれない。

午後2時46分。揺れが始まった。最初は二日前にも地震が起きていたため、その余震だと思っていた。

しかし、徐々に強くなる揺れに、「これはいつもと違う」と思い始めてきた。出掛ける寸前だった母も家に留まった。

やがて体験した事の無い大きな揺れが襲う。あまりの恐ろしさに、何も考えられなかった。縦揺れか横揺れかも判らない。まるで大きな怪獣がマンションを掴んで揺らしている様な、そんな感覚。家中の物が落下した。電灯の笠も落ちた。揺れは治まるどころかどんどん大きくなっていく。

母に抱かれ恐怖に震えながら「ああ、これは悪夢だ」と悟った。これを悪夢と言わずして何と言うのだろう?

ようやく揺れが治まった時、恐怖のあまり私は号泣した。言葉では表しきれない恐ろしさだった。家中、落下物が散乱している。足の踏み場も無い。幸い、ここでも運が良かったのは食器棚が倒れなかった事だろう。

ありったけの荷物を持って外に出た。防寒具と携帯電話だけ。小学校への避難指示が出ていた。ウォークマンのラジオ機能を使うと、先程の大地震が報じられていた。友達は無事だろうか、と一生懸命メールを飛ばすも、回線は込み合っており繋がらない。

近所の母校である小学校に避難した。友人らと再会、お互いの無事を確認し合った。雪が降ってきた。とても寒かった。

空き教室に一晩泊まった。外は雪が降っており、室内とはいえストーブも焚かれない教室はかなり寒い。母が毛布を家から取って来ると言った。危ないから止めて、とお願いしたが、母は行ってしまった。やがてすぐに戻ってきた。「家の前まで津波が来てる」と言った。水嵩こそ5センチ位と高くは無いものの、海からそれなりに遠いと思っていた我が家まで津波が来ていたという事実にショックを受けた。実際、友人の何人かは床下浸水したと言う。身近に迫っていた恐怖に身震いした。

非常食を貰ったが、食欲が湧く筈もなかった。電気も断たれており、蝋燭の頼りない灯りだけで一晩過ごした。毛布も供給されたが、全員分には足りなかった。母は子供達に自分の分を分け与ようとしていた。それが申し訳なかった。津波から命からがら逃げて来たおじいさんは、長靴ごと水に浸かっていた所為で足が冷え切ってしまっていた。温められる術など持っていなかった。誰かが持参したラジオを聞いていた。聞き慣れた地名が聞こえた。沿岸部だった。ラジオでキャスターが津波で壊滅状態だと告げた。恐怖が全身を駆け巡った。

一夜が明けた。絶え間なく余震が続いていたため、殆ど徹夜だった。漸く電話が繋がった。県外の父から安否を確認する電話を貰った。とりあえず家族全員が無事だと告げた。普段は無口でシャイな父だが、自ら電話を掛ける程切羽詰まっていたのだろう。後で電気が復旧した時に初めて見た津波の映像を見て納得した。

翌日は体育館に寝泊まりした。床は固くて身体が痛くなった。プライバシーも何も無い。人見知りな私には耐え難い空間だった。配達された新聞で初めて福島の原発が事故を起こしていた事を知った。

家の外壁を確認して、大きなヒビが無いから倒壊の心配は無いだろうという事で翌日からは自宅に戻った。もう学校で暮らすのは限界だった。久々に帰る家は安心した。ただ、家の周りでは干からびた魚が転がっており、津波がここまで来ていた事を物語っていた。

家の中にあるありったけの灯りを食糧を集めた。ストーブはガスの使えない現状ではとても役に立った。お菓子も主食として食べた。姉と気を紛らわすために交換日記をつけた。早く日常が復活します様に、と願いを込めて余っていた折り鶴で、千羽には満たないが千羽鶴を作った。近所のスーパーも生鮮以外の食糧を売り始めた。水はマンションの貯水を節約しながら使っていた。

不自由だけど何とか工夫しながら頑張って生活していた。ある日突然電気が復旧した。それまでは充電も何時間も並んで待たなければならなかった。電気が通る。今迄は当たり前だった。その当たり前が、本当は何にも代え難い有り難いものだと思い知った。

電気が復旧して初めて震災当時の映像を第三者の目線から見た。命が簡単に散っていく様は恐ろしかった。家族も家も友人も無事だった私は全然恵まれた方なのだと理解した。それでも、それ以来地震が極端に怖くなった。津波の映像を見る度、もしも巻き込まれたのが自分やその家族だったら、と考えて恐ろしくなった。その絶望は到底耐え切れるものではない。

何も出来なかった子供の私は成人を迎えた。恥ずかしい事に、未だに社会の役に立てていない。

私は地元が好きだ。あの時、見ず知らずの人達から助けて貰った恩をどういう形でも返したい。

復興は進んでいるが、未だ仮設住宅暮らしを強いられている人も沢山居る。五年経っても傷は癒えない。被災者は忘れたくても忘れられない。肝心なのは被災者以外の人達だ。どうか、忘れないで心に留めておいて欲しい。あの時沢山の尊い命が失われた事を。まだ助けを必要としている人達が居るという事を。